玄海の歩み

戦後の復興と共に・・・

玄海の歩みは九州・甘木出身の矢野廣雄が上京し、品川で最初の店を構えた事から始まりました。今でこそ東京では日本全国、世界の郷土料理を食べる事ができますが、当時は九州の郷土料理の一つであった「水たき」を食べることは非常に稀でした。

また外食という習慣自体が非日常であったこの当時、訪れるお客様といえば政界人や文化人の方々が中心でした。

本店では今でもそうしたお客様をご案内するように設えたお座敷の客席と、着物の接客というスタイルを維持しています。

その後、戦争の影響を受けて新宿へ移転、その後の戦災により建物を消失するなどの試練の時代をすごし、昭和28年に再スタートを切ります。
この時から水たきに使用した鶏を供養する「鶏供養」を執り行い、食材に感謝する機会を設けていました。

料理屋という生業を企業へと成長

その後、高度成長期とともに玄海も成長を続け、昭和42年に現在の本店ビルが新設され、昭和53年には亀戸の駅ビルに初の支店を出店、これを機会に店舗展開を始めていきます。

その際に出店の指揮を執ったのが、二代目社長の矢野雄一(現会長)です。以来玄海は二代目社長の下で着実に規模を広げ、創業者が始めた料理屋という生業を企業へと成長させる事に尽力をしました。

創業以来、水たきの原料として使用していたブロイラーを「伊達鶏」へと変更したのも矢野雄一です。このときは全国の鶏を調べ、試食し、伊達鶏がもっとも玄海の鶏に合うという確信を持って採用を決定いたしました。

やがて、平成8年に新宿に高島屋がオープンすると、その14階に高島屋店を出店。こうした発展の背景で、地元への地域貢献にも尽力し、特に花園神社には毎年の例大祭や大酉祭への協力をはじめ、数多くの活動への支援を続け、今でも神社総代会の責任役員を務めています。

こうした歩みを経て迎えている玄海の現在。その発展の様は、最初は10名程度で行っていた鶏供養が実に300名以上もの方が集まる一大イベントへと成長し、紀伊国屋書店の創設者田辺茂一がその著書で新宿の風物詩として紹介していただいております。

代表挨拶
「一世紀企業への歩み」

昭和3年から続く玄海の歩みは、共に手を携えてきた産地との歩みであり、長くご 愛顧頂いてきたお客様との歩みであり、根強くご支援を頂き続けている地域の方々との歩みであり、創業者の思いを受け継いだ従業員たちとの歩みでもあります。

大切な事は、育まれてきた「歩み」を絶やさないこと。そのような思いで、現代の襷を担っている私たちです。

長年にわたり、水たきを通じて「モノづくり」に取り組んできた私たちですが、これからの時代は「モノ」によって、どんな「コト」が成し得るか、といった提案が求められる時代であると理解をしております。

その意味でも、「モノ」を語れる「ヒト」の持つ力が、今後ますます重要な意味を持ってくる事でしょう。

一世紀企業への道のり。

先人より授かった知恵を磨き、一人でも多くの人財を育成する事に精進しながら、一歩ずつ歩を進めていく所存でおります。

株式会社 玄海
代表取締役社長 矢野 賀也